2020年度 ビジネスC3
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線内を走る8000系阪神山陽直通特急。地下化された三宮新駅ホーム。(阪神電気鉄道株式会社提供)三宮阪神ビル。テナントはそごう百貨店でした。(阪神電気鉄道株式会社提供) 日本の近代化、産業化の進展によって都市化が進み、都市輸送の需要が高まりました。1890年の第3回内国勧業博覧会でアメリカのスプレーグ式電車が展示運転されたことを契機に、京都電気鉄道(1895年)を嚆矢として、各地に路面電車が敷設されました。その後電気鉄道が発達していく中で、大阪−神戸間を電気鉄道で結ぶ計画が出て来ました。 1893(明治26)年12月、神戸、西宮の資本家らが神坂電気鉄道(翌年3月摂津電気鉄道と改称)、1895年5月には大阪の資本家らが阪神電気鉄道の敷設特許をそれぞれ出願しました。両社は翌年合併し、摂津電気鉄道に計画が一本化されました。 摂津電気鉄道は、1898年までに特許を下付され、翌年社名を阪神電気鉄道に改称しました。初代社長には、京都電気鉄道等の設立、経営に関わった外山脩造が就任しました。外山は、電気鉄道の技術者である三崎省三を技術長に抜擢し、アメリカに派遣しました。欧米では、専用軌道を走る高速電車で都市間を結ぶインターアーバン=都市間高速電気鉄道が発達していました。三崎は外山に阪神電鉄をインターアーバンとして敷設する構想を提出し、外山もこれを採用しました。 しかし、軌道条例は道路上に敷かれた併用軌道を1〜2両の電車が時速12.8km/h以下で走るよう定めており、そのままでは阪神電鉄をインターアーバンとすることはできません。そこで内務省と阪神電鉄が協議を重ね、内務省は線路の一部分が併用軌道であれば、他は専用軌道でよいという拡大解釈を示しました。これにより、インターアーバンとしての阪神電鉄が実現することになりました。 工事は順調に進み、1905(明治38)年4月12日に全線が開業しました。ターミナルは大阪側が出入橋、神戸側は三宮におかれ、ダイヤは朝5時から夜12時まで12分ごとの運転でした。阪神間の所要時間は当初90分でしたが、その年の6月に80分、9月に72分と徐々にスピードアップしていきました。 阪神電鉄は官鉄より運賃が安く、駅数、運転本数も多くて圧倒的に便利で、開業時から多くの利用がありました。ただ、路線は人口が多い沿岸地域の町々を経由したため、カーブが多くなりました。そのため阪神電鉄は、線形改良の努力を積み重ねていきました。都市化の進展と輸送力増強 第1次世界大戦期には全国で都市化が進み、阪神電鉄の利用者もさらに増加しました。1921(大正10)年11月には列車を2両に増結し、急行電車の運転を開始しました。ダイヤは、急行、普通とも6分ごとの運転で、所要時間は阪神間で急行が56分、普通が63分になりました。1924年には甲子園球場が竣工し、停留所が開設されました。 1920年に箕面有馬電気軌道の阪神直通線(現、阪急神戸線)が開業すると、阪神電鉄との間で激しい競争が繰り広げられました。阪神電鉄は、高出力の新型高速電車の投入、御影付近の高架化(1929年)、三宮駅の地下化(1933年)、梅田駅の地下化(1939年)などによるスピードアップを進めました。 この頃阪神電鉄は、新線建設を積極的に進めました。北大阪線、阪神国道線などの併用軌道線のほか、専用軌道線も伝法線の開業(大物−千鳥橋間、1924年)、本線の元町延伸(1936=昭和11年)、梅田新駅への延伸(1939年)を行いました。戦時中の1943〜44年には、川西航空機工場への輸送のため武庫川線を敷設しました。戦災・災害復旧と車両の大型化 第2次大戦では阪神電鉄も大きな被害を受け、保有車両約300両のうち稼働車両数はわずか55両でした。1950年9月にはジェーン台風電気鉄道の発展と都市輸送阪神電気鉄道の設立新線建設RAILWAY IN HYOGO阪神電気鉄道兵庫の鉄道Series Vol.5

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